東京地方裁判所 昭和32年(ワ)1962号 判決
証拠によれば、被告佐々木恭一が、昭和二十九年三月十五日訴外フェニックス書院(以下フェニックスと略称)に対し、金額四百八十万円の本件手形一通を振り出し、フェニクッスが同日原告にこれを裏書譲渡し、原告がその所持人となつたことが認められるから、本件手形の振出を否認する被告佐々木の主張は採用できない。
次に、証拠を綜合すれば、被告佐々木が本件手形を振り出した事情は次のとおりであることが認められる。すなわち、被告佐々木は、フェニックスの代表取締役である被告久木田から、「フェニックスが原告から買い受けた教科書用紙の代金支払のために、フェニックスの納本先である訴外教科書販売株式会社の振出手形を同会社(以下、教販と略称)から入手して原告に回わす約定であるが、あと一週間か十日すれば入手できる。現在原告から経理上の都合だけで、行使はしないから代りの手形をよこしてくれと要求されて困つている。教販の手形入手まで一時原告に預けるため手形を貸して欲しい。」と懇願されて、フェニックスが一週間か十日すれば教販の振出手形を確実に入手して原告に回わすべく、そのときは本件手形が返還されるものと軽信して本件手形を振り出したところ、実は当時においてフェニックスがかかる短期間内に教販の振出手形を原告に回わす見込はなかつたのであつて、しかも、原告としては、かような見込のないことについては何も知らず、フェニックスに対し、教販の振出手形を入手して原告に回わすべき要求と期待とを捨てず、原告としては当時三月の決算期に当つていた関係上、取り敢えず本件手形を教販振出手形の担保として取得したのであり(帳簿上を糊塗するためというようなことではない)、フェニックスとしては、原告に対し、本件手形の支払期日の前に教販の手形を入手して原告に回わして本件手形を差し替えることを約すことにより、本件手形を教販振出手形の担保とし、もつて原告の教販振出手形の追求を一時避けたことが認められるのである。
およそ、手形の振出行為の主要な内容自体に錯誤があつて、その錯誤がなかつたならば本人も振り出さず、普通一般人も振り出さないであろうような場合には、当該振出行為は、いわゆる要素の錯誤として、振出人の無過失等特段の事情に応じて、振出人に物的抗弁権を与えてこれを保護すべき場合があろうけれども、その振出行為の縁由に錯誤のある場合は、これを振出行為の要素に錯誤があるものとはいえないから、物的抗弁権を与える余地はない。被告佐々木が、本件手形の振出に当り、被裏書人に対する前認定のとおり短期間の一時的預け手形であつて、短期間の後に裏書人において差替手形を確実に他から入手して被裏書人に回わすことにより本件手形は振出人に返還されるものと誤信したことは、要するに手形振出の縁由に関する錯誤であつて、その要素の錯誤といえないから、被告佐々木の主張する、要素の錯誤の抗弁は、これを採用することができない。
次に、被告佐々木は、仮定抗弁として、本件手形の振出行為は、原告及びフェニックスの詐欺に因るものであるからこれを取り消す、と主張する。なるほど、被告久木田がフニニックスの代表取締役として、被告佐々木に対し、前認定のとおり、短期間内に教販の手形を確実に入手して原告に回わす見込がないのに、恰もその見込確実のように申し向けて、右手形入手まで一時的に原告に預けるだけであるといつて本件手形の振出を受けたことは、被告久木田の被告佐々木に対する詐欺の疑が濃いけれども、仮りにこれを詐欺であるとしても、そして、抗弁の趣旨が、被告久木田の詐欺の趣旨であるとしても、およそ詐欺による手形行為取消の抗弁は、手形法上いわゆる人的抗弁であつて、善意の手形所持人には対抗できないものであり、当該抗弁の主張者において手形所持人の悪意を立証すべきところ、本件全立証によるも、原告が右詐欺について悪意であつたことを認めることはできない。よつて、何れにしても、右抗弁は採用することができない。
そこで進んで、被告らの主張する、差替手形による本件手形失効の抗弁について判断する。
被告両名及びフェニックスが三者共同して、昭和二十九年五月六日原告に対し、金額四百八十万円の約束手形を振り出したことは、当事者間に争がない。しかしながら、右手形振出に際し、原告とフェニックスと被告佐々木との間の三者協定により、右手形をもつて本件手形と差し替えて、爾後本件手形を失効させる旨の合意が成立したことを認めるに足る証拠はなく、かえつて証拠を綜合すれば、次の事実が認められる。被告佐々木は、フェニックスが予期に反して教販の振出手形を入手して原告に回わす気配がないので漸く不安を懐くうち、本件手形の支払期日も接近し、一方フェニックスは経営に失敗して整理されることになつたので、振出人たる自分が原告から本件手形を行使されるに至るべきことを懼れ、本件手形の回収に必死となり、原告に対し振出の事情を述べて懇談に努め、その手段として、被告久木田個人をして決済の責任をとらせることとし、フェニックスの本件手形債務につき被告久木田個人を連帯保証人とし、また同被告の個人所有不動産に抵当権を設定せしめることを約し、原告の了解を得た上、本件手形の支払期日切迫前に被告久木田を説いてこれを承諾させた。しかるに、被告久木田の所有不動産には、既にフェニックスの教販に対する三百万円の債務につき第一番抵当権の設定がなされていて、被告久木田はこれを抹消しないので、原告としては、第二番抵当権の設定をするほかなかつた。しかも、被告久木田の教販に対する右債務の完済はあいまいで、右第一番抵当権の登記は抹消できそうになかつた。そのため原告は、本件手形を返還することを肯んぜず、被告らに対し、原告の抵当権が実質上第一番であることの保障と具体的返済計画の提示を要求し、それが保障されたときにはじめて本件手形を他の手形と差し替えて被告らに返還する旨表明した。被告久木田は、教販の第一番抵当権はフェニックスの教販に対する教科書納入によつて完済されるが故に、これを直ちに抹消しなくても自ら原告の第二番抵当権が実質上の第一番抵当権となると説明したが、完済の事実の裏付けを明確にしないため原告を満足させなかつた。そのため、被告久木田は原告のため第二番抵当権を設定し、また被告らとフェニックスとは前記の三者振出の手形を原告に差し入れたにかかわらず、本件手形と差し替えて本件手形を失効せしめ、被告らの手に回収することについて原告の合意を得ることができず、そのまま本訴の提起となつた。以上の事実が認められるのである。
そうであつてみれば、被告ら両名は、原告に対し、連帯して、本件手形金四百八十万円及びこれに対する完済までの遅延損害金の支払義務がある。よつて原告の本訴請求は理由があるとしてこれを認容した。